第2話「上がりきったところでチョーン!」
日本浪曲協会の事務所は、地下鉄銀座線「田原町」駅から徒歩5分ほど、 田原小学校の目の前にある。
現在は、毎週火曜日19時から「火曜亭」なる寄席が開催されており、浪曲好きのお客様にとっては、 身近な存在になっていると思う。
当時は、そうではなかった。
玄関の「日本浪曲協会」と立派に記された、なんか「藤島部屋」みたいな(少し負けます)木の札。
その前を何度も何度も素通りしたあげく、その近所のディスカウントショップの角から、電話をかけた。
「…もしもし。日本浪曲協会でございます」
女性の声だ。
「あ、すみません、あの、えーっと、その……、浪曲師になりたいんですけど…」
「…え、はい?」
「あ、あの浪曲師になりたいんですけど」
「…はぁ。(しばし間)あの、浪曲は、今はなかなか食べていけませんけど」
「はい、あの、それはもちろん!」 と私。(何が「もちろん!」かよくわからない。)
「…ちょっとお待ち下さい。(誰かそばにいるらしい人に)すみません、ごにょごにょごにょ…」
「…」私。
「…あ、もしもし。浅草の、田原町駅からすぐのところに、日本浪曲協会の事務所があるんですが、では、一度そちらに来ていただけますか」
「あ、えーっと、すぐ側にいるんです」
「え?」
「あの、実は、その、今、事務所の近くに今来てまして」
「あ、そうですか。(誰かそばにいるらしい人に)近くにいるんだって。ごにょごにょごにょ…」
「…」私。
「じゃあ、おこしいただけますか」
「はい!」
なんだかわからないうちに、かけてしまったのだ。
言ってしまったのだ。
心の準備なんか、まるで出来ていない。 震える手足をひきずって、浪曲協会の事務所を訪ねる。
出迎えてくれたのは、女性…大きい。 名前はわからない。(のちに、浪曲師の天津ひずる師匠ということを知る)
そのサイズと独特の雰囲気に驚きながら、広間に通される。 30畳はあろうか。大広間の中央に、畳二畳くらいの大きさの机があり、そこで、ちょこんと、二人で作業されている様子。
もう一人は、春日井梅光師匠であった。
「あ、この人見たことある」 と内心思いながらも、正面に座らせていただくと、間もなく、女性がコーヒーを運んできてくれた。 スーツ姿の梅光師匠は、舞台上で侠客物を演じるダンディーな雰囲気とは別人のような、気さくな、微笑ましい、それでいて、こちらを見ないで話す、みたいな感じだった。
お二方とも、私の、このなんともまとまりのない、ふわっとした状態を、 嫌な顔せずに、応対して下さった。
「カラオケとか、すごい苦手なんですが」と私。
「それは全然関係ないから」と梅光師匠。
「え?!関係ないんだ…」と驚いた。
細かい流れは覚えていないが、私が木馬亭で、出演している全員を聴いたと伝えると、 「じゃあ、俺のことも聴いてるのか」と照れくさそうに笑われて、「どの浪曲師が好きだったか?」みたいなことを聴かれ、私は、当時すごいと思っていた師匠の名前を何人かあげた。
すると、 「うーん、じゃあ、男の子だし、○○師匠かなぁ?」 「そうですねぇ」 「ちょっと電話してみろよ」
みたいなやりとりが、目の前で突然起きたことに驚いた私は、
「玉川福太郎師匠のところへ入門したいです!」
と慌てて告げる。すると、
「じゃ、福太郎さんとこへ電話して」
と、いとも簡単に連絡していただいた。 ところが、なんでも翌月から始まる名古屋での一ヶ月公演のため、すでに東京にはいないとの返事。
三月の木馬亭には出演されるとのことで、そのときに、福太郎師匠に会えることになった。
「声調べくらい、あるかもなぁ」
何気ない、梅光師匠の一言であったが、私にとってそれは、「弟子入りのための試験がある」という突然の発表だった。
あくまで「浪曲を聴くこと」にはまっていた私は、 そこで、ひとっ節も唸れない自分に気づく。
もう後戻りはできない。
(……しかし、こうして振り返ってみると、 周りの仲間や先輩たちの「寄席での楽屋口で出待ちして」とか「自宅に何度も押し掛けて」などという、いわゆる弟子入り物語に比べると、私のそれは、なんとも情けない…。。)
浪曲を聴き始めて、3、4ヶ月。 それまでは、浪曲の「ろ」の字もしらなかった私である。
浪曲師になったら、ひと節どころでなく、唸らなければならない。 当たり前だ。 浪曲師なんだから。
その当たり前の事実が目にはいっていなかった私。 いくら、「自分で浪曲の台本を書いてみたい」という動機だろうと、 最初っからそんなことができるわけがない。
「声調べくらいあるかもなぁ」
さて、一ヶ月後に、玉川福太郎に会えることになったはいいが、 そこで、「声調べ」という試験がある。
ご存知ない方のために説明しておくと、 私の師匠福太郎は、とんでもない声の持ち主である。
顔もごつい。
やくざ物を語っているとき…違和感皆無。
その人の前で、「声調べ」をする。
すでに大ファンであった私は、師匠の音源を多数所有していたので、 まずは、それを聴きながら、見よう見真似?で声を出す稽古を開始。
当時、歌舞伎町のど真ん中のカプセルホテルでバイトしていた。 「マイカプセル」が支給され、夜中、仮眠しながらの勤務を週5、6でやっており、 その「マイカプセル」が我が家と化していた。
バイトを終えると、近場のカラオケボックスにiPod持参で入店。 師匠の声を聴きながら、真似して声をだす。 何時間も、ひたすら。 歌舞伎町はカラオケボックス激戦区だから、その中でもっとも安いシダックスの常連となる。
フリータイムというやつで、500円で6時間くらいいれる。 カラオケのモニターもBGMも消して、薄暗い部屋の中、ひたすら真似をする。
当時の私は、いったい、どんな声を出していたのだろう。 今でこそ、こんな声なんだから、当時は…推して知るべし。 幸い、「自分の声を聞いて修正する」という勇気を持たなかった私は、自分の下手さに絶望することもなく、約一月の間、ひたすらカラオケボックスに通い続けた。
そして、運命の日。 2007年3月5日。晴れ。だったと思う。
梅光師匠から「木馬亭の裏のサニーって喫茶店にきて」と連絡があった。
場所は、知っている。
木馬亭へむかう前の通り、「奥山おまいり道」を浅草寺へ向かっていると、 サニーの少し手前の駐車場のあたりから、「もしもし!…はい!…ええ!」という聞き覚えのありすぎる声。 50mくらい離れているわけだが、瞬時に、玉川福太郎とわかる。 私服姿は初めてだ。 グレーのジャケット。 電話の大きな声(怒鳴っているわけではなく、通常で、でかい)。 白髪まじりのパンチパーマ。 ごつい顔。
…
や○ざ?
金玉が縮み上がるのを感じながら近づいていくと、電話が終わったようで、師匠もこちらに気づく。
「…!」
もはや声を出すことができず、私がただ頭をさげて挨拶すると、ちょうど梅光師匠が見えて、紹介してくれる。
すると、私のあまりの挙動不信さにであろうか、 「あ、たぶんこの子じゃないかなって、雰囲気でわかったよ」 と師匠が梅光師匠に話している。
さて、サニーで二人きり。一番奥の席で向かい合う。
すでに梅光師匠から色々話を聞いていたようで、 「木馬亭に出てる、全員聴いたんだって?」 とか、 「うーん、若い人がいたらわかるはずなんだけど、 君のことは気づかなかったなぁ」(※つまり、前述の記事にあった私の判断は、完全に錯覚だった…) とか、 「今の若手は、俺よりも年寄りくさい浪曲ばかりしてる」 とか、色々話されたあとで、
「よく俺をえらんだな」
と、とてもニコやかにおっしゃった。 というか、 舞台上のごつい表情、大迫力とはうってかわり、なんとも優しい、おおらかな方だと思った。
私がどんな動機で入門したいかを伝えると、
「そうか。じゃあ、2、3年基礎を勉強して、それからどんな浪曲やるか、楽しみだな」
「…え?」
なんか、もう、入門許されてる感じ?え?? 声調べは??いいの??
内心とまどう私をよそに、 「じゃあ、楽屋に行こうと」と、サニーを出て、木馬亭の楽屋口へ。。
かなりヨレヨレの楽屋のれんをくぐって、さんざん通い詰めた客席ではなく、 圧倒的な不安と、師匠のにこやかさがもたらしてくれた、ほんの少しの希望を抱えて、 はじめて木馬亭の楽屋へ足を踏み入れた。
その日は、師匠がトリをつとめる日だった。
出番で楽屋にいた、曲師の一郎師匠に、 「新しく入った弟子です。稽古してやって下さい」 と頭を下げてくださる。
富士琴路師匠には、 「しごいちゃう♡」 と笑顔で言われた。
…今は亡き師匠方ばかりだ。(とくに琴路師匠とは、色々な思い出が…って、ふけっている場合じゃない。記事が長すぎるという、読者の声、嗚呼)
その日、師匠が何を口演されたか、恥ずかしながら覚えていないが、 終演後、舞台袖にいる出演者全員で、 「ありがとうございましたーありがとうございましたー」 と大きな声で言っているのを、ボーッと見ていると、
「ほら、お前も言え」
と、言われ、戸惑いながら声を出したのを覚えている。先輩に指示されるまま、テーブル掛けをたたむお手伝いもした。
終演後、師匠に浪曲をならっている素人さんの稽古があるので、 いまから家に来い、と言われる。
「い、いきなり家!?」
と戸惑うまま、師匠の後ろをついていくと、 師匠の奥さん、一門のおかみさんであり、曲師の玉川みね子師匠が、 「そんな、まだ声調べもしてないのに」 とポソリ。
「!?…やっぱあるんだ、声調べ。。」
浪曲をならっているTさんご夫妻と一緒に、Tさんの車で師匠の家に向かう。
到着した師匠の家は、実に立派な一軒家だった。
大変失礼な話だが、浪曲師の活動実態を知らない私にとっては、木馬亭定席や浪曲大会などの状況が知る所の全てであり、なんというか、つまり…とても意外だった。(師匠、ごめんなさい)
6畳程の居間というか、リビングというか、テレビや冷蔵庫や食器棚に囲まれた真ん中のコタツを皆で囲んで座り、 まずはTさんのお稽古。
「陸奥間違い」という演目だった。
終わると、二丁三味線のまま、今度は師匠が一席。 客席でも聴いていた「不破数右衛門 芝居見物」という演目だった。
一席終えた師匠は、
「こんなの、どう?」
と私に。
私が初めて覚える演目が、決定した瞬間だった。
そして、ついに来た。「声調べ」が。
といっても、試験なんて雰囲気ではなく、「ちょっと三味線で声出してみるか」 みたいなごく軽い流れで。もしかしたら、みね子師匠に急かされて、くらいだったかもしれない。
師匠が「なにがなにしてなんとやら」 という。 つづけてそれを真似るわけだが、音程というか、節のうねりが全然わからない。
ごく軽く、「なにがなにしてなんとやら」とやっているんだが、その上がったり下がったりが訳わからぬ。
しかも一種類でなく、いろんな種類の「なにがなにしてなんとやら」。
「なにがなんだかわからない」
一ヶ月、師匠のCDをひたすら真似ていた成果は、「皆無!」 まさに「皆無!」の出来のまま、とにかく必死で声をだした。
師匠が一言、 「まあ、声は大きいほうだな」
と、私の「皆無」の出来にもそれほどがっかりする感じもなく言われた。
師匠が吹き込みたてのテープをいただいて、まずはそれを覚えることになった。
稽古が終わると、テーブルの上は出前のソバやらビール瓶やらでいっぱいになる。
「酒、飲めるのか」と師匠。
「…あ、はい、飲めなくはないです」
と答えると、非常に嬉しそうに、
「そうか」と頷かれ、私がずっとビール派だというと、
「ずっとビールばかりじゃいいけない。ビールを飲んだら、次はウーロンハイ。相手に合わせた、そういう酒の飲み方も覚えなきゃいけない、うん」 という教えは、今もあまり守れていない。(師匠、ごめんなさい)
帰り道、西新井駅のホームから、「い、いま、家行ってきました。な、なんか、弟子入りできたみたいです!」 と興奮しながら村松さんに電話していた。
村松さんは、とても驚いていた。
「『弟子入りしちゃえば!?』 とは言ったものの、まさか本当に弟子入りするなんて…」
予想以上の驚きっぷりに、 「弟子入りしちゃえば!?」が、私の思う以上に冗談半分だったのかと、 若干のショックを受けたことは内緒である。
さて、 一席目の演目が「不破数右衛門の芝居見物」と決まった。 吹き込みたて、ホヤホヤのテープを持って帰宅するやいなや、 まずは文字に書き起こした。
確か、翌日も師匠が木馬亭の出番で、お手伝いに行ったと思う。
「もう覚えたか?」
と師匠がいたずらっぽく笑われながら言うので、
「あ、いえ!でも、文字には書き起こしました!」
と答えると、
「ん!いいぞ!」
と私のやる気をとても喜んでくれた。
そうなのである。
なにが?とお思いでしょうが、
…そうなのである。
師匠に、喜ばれたい。 師匠に、好かれたい。
不純な動機のようにも聞こえるが、 自分が惚れた、すごい芸をされる方である。
客席に通っていた立場から、まだ数日しか経っていない。
弟子入りしたとはいえ、ただの大ファンなのである。
師匠に誉められたい。
芸が上手くなりたいなんて、まるで考えていなかった。 ただ誉められたい一心で、 一晩で文字に起こし(ま、そんな大したことじゃないです)、1週間たたずに30分丸々一席覚えたと思う。
覚えたといっても、言葉として覚えただけ。 とにかく、繰り返し繰り返し、聴いて聴いて聴いて、聴きながら一緒に真似て真似て、 で、実際稽古すると、一人じゃまるで歩けない。
師匠が声を出す。 それに補助されながら、ようやくヨチヨチ歩きができる。手を離されると、たちまち転ぶ。
師匠の仕事のときに、カバン持ちとして、ご自宅にうかがう。 少し早めに行って、そこで少し稽古をつけていただく。
どうしたら浪曲師の声が出せるのか、皆さんに、 我が師•福太郎の教えをご紹介しよう。
「お腹に力いれて、口を大きくあける」 以上。
弟子入りして一月もたたないうちに、 師匠の出番の際に、一節唸るという機会が何度もあった。 もちろん、名前もついていない。
「男の子が入りまして」「国立大学まで出て、何も浪曲師になることはないんです」 「お母さんは大反対したらしいんです」
こう言って、いつも笑いをとっていた。
で「おーい、出てこい」
といきなり呼ばれ、不破数右衛門の外題付け(一番最初の節)を、ほんの数行やる。
三味線がなる。 どの音程で出て良いか、アガっているのでわからない。 「お腹に力入れて、口を大きく開けて」と横から師匠の声。 パニック状態のまま、
「時は~!!!…」
後が続かず、頭が真っ白になった。 あまりの新人ぷりに、客席からは笑いが起こる。
私が、大コケした後、師匠が同じようにやってみせる、 「いいか、高い声のときは、力を抜くんだよ。…花の三月~」
「おお~」「全然違うなぁ」 とお客様の歓声。
(今更ながら、一言言わせていただきたい。 当たり前だー!!!!!!!!!! )
その日、出番の後、姉弟子たちが師匠宅に集合した。
毎年5月、国立演芸場「大演芸まつり」で、一門の弟子で「祐天吉松飛鳥山」を口演する、その稽古のためである。
いつものごとく、師匠宅にうかがう際には、私の稽古もセット。 姉弟子たちが集合する前に、「不破数右衛門」の稽古をつけていただく。
「なんで、そんな変な節つかうんだ」 と言われ、 「あれ?」と思って、もう一度やってみる。 「そうそう。そうだよ」
…違いがわからない。
「前に声を出すように」
と言われ、とにかく必死にやっている。すると、姉弟子たちが、一人、二人と居間にあらわれる。 まだ木馬亭でお目にかかっていない、初対面の姉さんもいる。
師匠の後ろにひかえながら、なにか囁きあっているのが見える。
なんか、驚いている。
とくに、お福姉さんが登場したときの様子は、はっきり覚えている。
お福姉…びっくりしている。
「ご親戚?」みたいな単語が私に聞こえてくる。
男の弟子が入ったという情報は、すでに知られているので、そのせいではない。 稽古が終わった後、姉弟子たちが口を揃えて言ったのだが、
「びっくりするくらい、声が似ていた」
らしいのだ。
3番弟子の、こう福姉さんにいたっては、玄関先で聴いていて「あれ??…うちの師匠もずいぶん下手になっちゃったなぁ」と、 かなりがっかりしていたらしい。
驚きのおさまらぬまま、今度は「祐天吉松」の稽古が始まる。弟子が一列に、師匠の前に並ぶ。 たしか、おかみさんが不在で、奈々福姉が三味線を弾いた都合で、読み合わせの人数が足りない。
「お前、ちょっと、代わりにやれ」
うちの師匠は迷わず、こう言う人だ。
私「ちゅ、仲裁も時の…えー、し、シジン?」
師匠「ウジガミ(氏神)だ」
私「あ、はい」
と、注意されながら、1時間足らずで稽古は終了。全員で、近所の、ラーメン屋「タカノ」へ。
餃子、ラーメン、そして当然、ビール。それほど大きくない机を、全員で囲んで酒宴の始まり。 そこで、まだ名無しの私の、「命名会議」が始まった。
師匠の一押しは、相当早い段階から「大福(もしくは、だい福)」であった。 「大福、大きい福だ。な?こんなめでたい名前はないだろう。な?」
「駄目よ、そんな冗談みたいな名前は」とおかみさんがツッコむ。
「そうか。いいと思うんだがなぁ。じゃあ、お前(私に)なんか、自分でも考えろ」
「…は、はい(え~?自分で??)」
と前から言われていたが、そう言われても困るという状況は、お察しいただけると思う。
さて、ラーメン「タカノ」の二階で始まった命名会議。
師匠「大福がいいと思うんだがなぁ~」
「駄目ですよ~」全員却下。
ちなみにうちの一門は、師匠福太郎の「福」の字が、全員入っている。上から「福助」「お福」「こう福」「奈々福」「ぶん福」。 全員、命名されるときには、必ず候補として、 「大福」と「おた福」の二つあがっていて、そして、全員が避けてきた。
「お前、考えていたか」
「え~っと、師匠が、最初本名でされていたので、自分も本名で…」
「本名だと、玉川太(ふとし)か。…うーん」
「うーん…」
全体的にいまいちな反応。 姉弟子たちも色々考えてくれるのだが、
「じゃあ、もう、おた福でいいんじゃない?」
「師匠の本名継いで、忠士は?」
とか、訳の分からない提案まで出てくる。まるでまとまる気配なしのまま、「命名会議」終了。
このとき驚いたことがある。
「おい、勘定払ってこい」
と、財布を丸ごと渡された。 お札だけ、それが、1万円、2万円であろうと、それとは、訳が違う。何の躊躇もなく、財布を丸ごと、ポンと。
「すごい信頼だな」と思った。 師匠はよく「師弟っていうのは、親子以上だからな」とおっしゃっていた。
「親子以上」
今では、自分なりにこの言葉の意味を受け止めているつもりだが、 それでも全然、師匠の口にした「重さ」を、私は理解できていないんだと思う。情けない。
「おた福」「だい福」「太(本名)」…どれも決定打を欠いたまま、名無しの私。
では、師匠は私のことをなんと呼んでいたのか、 「ふとし」 と呼んでくださっていた。
嬉しかった。
気持ち悪い…、と思わないでいただきたい。
すごく覚えているのは、近所の蕎麦屋(これはまだある)で、やはり姉弟子たちと、おかみさんもいて、 そのときごくさりげなく、 「ふとしは、あれか…」 みたいな感じで、呼んで下さった。
自分の好きな人から、名前を呼ばれるというのは、 理屈抜きに嬉しく、ちょっと恥ずかしい。
師匠と二人きりで飲みにいったこともある。
「不破数右衛門」のネタは、終わりの部分がちょっと、ブツっと切れている感じで、 師匠がやる分にはいいんだが、「お前はこれじゃちょっとなぁ。なんか、終わりの部分、節をつくってこい」
「ええ~!?」
お客様にも、「台本書いてみてよ。書けるでしょ?」 と半ば本気で、気軽に誘っちゃう人だから、弟子になんかは当然なわけだ。
言われてすぐ国会図書館に行き、古い浪曲台本集の中に、同演目を見つけて、 それを参考にして、なんとかかんとか、十行ほどの節をつくって師匠にみせた。
「…ここはちょっと字余りだから、こうだなぁ」
なんという感じで添削されて、その場でうなってみせる。おかみさんは留守のため、三味線はなし。
大体において、稽古の時間は短い。
「よし、ちょっと付き合え」
玄関先においてある、全身サビだらけ、かなりネンキのはいったママチャリにまたがって、 「すごいだろ。誰も持って行かないぞ」 とニコッと笑う師匠。
師匠の自転車をおいかけること5分ほど、まだ陽が高いうちから開いている飲み屋の前に停まった。
「てまり」
と看板が出ている。奥に座敷があるが、カウンター10席ほど。カウンターに人が座っていると、なかなか後ろを通れないような、ちょっと素敵な狭さだ。
今では、スナック的な店にいくことにも何の抵抗も感じないが、下町なら、どこの住宅街にもよくあるような、 「常連客=近所のおじさんが9割」みたいなお店は、そのときはなかなか衝撃的だった。
長年、丁寧に磨き上げられたピカピカの厨房…とはいいがたいカウンターのなかで、おばちゃんが一人で切り盛りしている。
ちょっと半解凍なマグロのぶつが出て来た。
ん?
おいしい。
「師匠!予想外に旨いです!」 などとは、口が裂けてもいえない。
師匠にビールを注ぐのは当然だが、 それまでの癖で、私が自分で自分のグラスに注ぐと、 「俺とだからいいが、お客さんの前でそんなことするなよ。自分も気をつかって、相手にも気をつかっていただくんだ」 と教わった。
あと教わったこと。
「女に気をつけろ」「女は怖いぞ」「へんな病気もらうなよ」
(師匠が生きていたら、今頃このあたりの話を、もっと具体的に色々聞かせてもらえたんだろうなぁ)
「お前には、俺が教わったことは、全部教えてやる」
芸のことはもちろんだが、掃除の仕方。電話の受け方。
「掃除が終わった後、障子の桟のとこ、指ですっと撫でて埃がちょっとでもあると、「はい、やり直し」厳しかったぞ」
かつてキャバレーまわりで歌を歌うときにつかっていたという、キラキラな薄手の袴を引っぱりだしてくれて、 「これは、普通のより難しいぞ。やってみろ。うちの大先生は、着物にしわが一本でもあったら、絶対着てくれなかったそうだ」
電話を受けるとき、 「はい!玉川でございます!って大きな声で出るんだ」
仕事先でご馳走をいただくとき、 「こんな良いもん食って腹壊すなよ」
そして必ず、いたずらっぽく笑いながら、 「俺も、うちの先生に言われたんだ」 とつけくわえる。
つい何日か前、「電話の声、そこまで大きくなくちゃ駄目なの?」と言われた。
そう言われて嬉しそうな私を、相手はもちろん理解できない。
「今日は一日浪曲三昧」
という、昼間7、8時間に渡って浪曲の音源やら、東西の現役浪曲師による実演やらを生放送するという、NHKラジオのスペシャル番組(すごい番組だ…)の収録があり、師匠のカバン持ちとして私もついていった。
いま、放送日を調べたところ、2007年5月1日とある。
この音源が、私の手元に残っているが、 一席終わって、師匠がインタビューを受けているところがあるのだが、 その中で、「最近、男の弟子がはいりましてね…」と話しているところがある。
例のごとく、 「大学まで出て、浪曲やることないんです」
会場、笑い。
「名前がね、本名が太、太いという一文字で、「ふとし」というんですけどね、その「太」を頭にもってきて、下に「福」をつけて、 「だいふく」にしようかなと思ってるんです」
会場、笑い。
「大きい福、こんなに縁起のいい名前はないです。ま、本人は、ちょっと面白くないような感じなんですが、師匠が、それでやれといえば、しょうがないかな、みたいな感じでございます」
アナウンサー「名前が、「だいふく」さんだと、アンコ入りがお上手でしょうね」
師匠「あ、うまい!」
なんて話されている。
「太」に「福」で「太福」という案は、自分の本名の漢字も入っているし、 姉弟子たちが「福」の一文字だけだが、これだと「福太郎」のうちの二文字いただける!(図々しい。。)と、私が提案したもので、 師匠も、反対せずに受けいれて下さった。 この音源を聞くと、弟子の名前一つ決めるのにも、師匠がいかに気を遣っていらしたかがわかる。
正式に、「お前、今日から太福だ」となった記憶はないが、 全国放送で師匠が名前を話したこの日が、私の命名の日になったような気がする。(余談ですが、5月1日にちなんで芸名をつけた、五月一朗先生と同じ命名日!嬉し!)
柝頭。
きがしら、と読み、拍子木とも呼ぶが、浪曲では、「柝(き)叩いて」とか、「柝(き)入れて」というふうに使っている。 浪曲では、一席の始めと終わりに必ず柝が入る。
茨城•日立の仕事で、すでに師匠は着物だったので開演直前だったと思うが、駐車場の片隅で、 「煙草は辞められなかったなぁ」と、ショートホープを一服しながら、柝のたたき方を教えてくれた。
「いいか、幕があがり切ったとこで、「チョ-ン!」だぞ」
「はい」
ガチガチの手で本番やってみると、私が、「チョーン!」
「遅い!」と怒られる。
一席の終わりで「チョーン!」と入れるところは、 「うん、いい間だ」と誉められた。
おそらく抜け落ちている記憶もあるかもしれないが、 6年たった今でも、師匠といった仕事に関しては、舞台も、楽屋も、その間取りも、食事も、ほとんど覚えている。
この日立の時は、 確か主催者のご友人みたいな方が楽屋を訪ねてきて、かぶっていた帽子をいきなりとり、
「植毛したんですよ」みたいな感じで、未完成もいいところのすごい状態の頭を見せられ、
「……」
師匠、絶句していた。
師匠のギャラも覚えている(笑)。
細かい記憶ばかり述べて申し訳ないが、このあたりにくると、 簡単に書き進めたくないからしょうがない。
私が、全国放送で命名された2007年5月、その中頃だったか。 赤坂の、クラブで仕事があった。 クラブといっても、若者の集まるところではなく、社長さんやら会長さんやらが集まるほうの。 みね子師匠は帰省しており、三味線は奈々福姉、カバン持ち私。 急ごしらえの楽屋。2人入ったら、座る隙間のないようなスペースで、師匠の着替えを手伝った。
演目は、「中村仲蔵」。と、営業の仕事のときは、ほとんど必ずされていた「名人の節真似クイズ」。時間がちょっとあまったので、じゃあ途中までやりますと、「天保水滸伝 鹿島の棒祭り」を15分。
これが、浪曲師•玉川福太郎の最後の口演となった。
(第3話に続く)
公開日:
最終更新日:2016/05/30