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第3話「夢のはじまり」

私の師匠、玉川福太郎の妻であり、一門のおかみさんであるのが、 玉川みね子師匠。

師匠とは隣村の出身で、実家は農家。お米を作っている。

農閑期に、東京に出稼ぎにきているとき、同郷の縁で、木馬亭に浪曲を聴きに行った。 当時は、今以上に、高齢な客層。その中に、20代前半の美人が座っている。 舞台上からおかみさんを見つけた師匠が、

「なんだあいつは…!!」

と一目惚れしたらしい。

「なんだあいつは!!」と見初めるのも何だかおかしいが、本当だそうだから仕方ない。

師匠の実家は、東京に引っ越してしまったので残っていないが、おかみさんの実家はそのまま。

そのおかみさんの実家に、5番弟子の「ぶん福」姉、とその旦那さん、私の3人で、田植えのお手伝いに行く事になった。

(2007年5月19日から3泊4日の日程で、 東京組はぶん福姉、その旦那さん、私。 地元からは、同じ市内に住んでいる、師匠の姉さんの旦那さん。)

前日18日に、ぶん福姉の旦那の運転で東京を出発。 途中一泊し、翌日の朝、山形県酒田市(旧平田町)にある、おかみさんの実家に到着した。

話には聞いていたが、すごい田舎だった。 新潟出身の私が言うのもなんだが、ど田舎だ。近所にコンビニ•スーパーなんかない。唯一あるのは、車で10分くらいいったところの「○○商店」みたいなお店だけ。 山の中の、農村。 「師匠の家は、山一つ越えた隣り村」などとよく聞いていたが、まさに、そんな感じ。 「山を越える」 という感覚がごく日常にある…そんな世界を想像していただきたい。

若干迷っていた我々のために、おかみさんは家から少し出たとこまで、走って迎えにきてくれた。

割烹着姿のおかみさん。差し歯が一本抜けている。

到着し、車から降りると、作業着姿の師匠が笑顔で出迎えてくれた。

「よく来たな」

田植えのお手伝いと言っても、ほとんど終わっていて、機械で植えそこねてしまった部分を手で植える、「穴埋め」という作業が中心だった。 山の中の田んぼなので、泥がものすごく深い。 普通の長靴じゃまったく歯がたたない、と聞いていたので、私は気合いを入れすぎて、胸の高さまである「胴長」と呼ばれる作業着を購入してのぞんでいた。

私の姿を見るなり師匠が、

「(みね子師匠に)おーい、こいつすごいの持って来たぞー。ガハハハ」と大笑いされた。

「穴埋め」の他にも、田植え機をつかって植える部分も少しのこっていて、今回初めて乗ったという師匠が、慣れない手つきで機械をあやつっている。 一列植え終わったところで、後ろを振り返ると、稲が見事にクネクネ曲がっている。

「…曲がっているな」

と、私と顔を見合わせて笑う。

東京にいるときから、まるで飾らない師匠だが、さらに自然というか、「浪曲師」という肩書きを背負っていないような、 「玉川福太郎」ではなく「佐藤忠士」の姿がそこにあったのかもしれない。

庭で飼っている2匹の犬が、ときおり、ものすごい勢いで吼え出して止まらない。 そこに向かって師匠が、「うるさいぞ!なんでそんなに吼えるんだ!」と本気で怒っている。

米どころ、新潟出身の私とはいえ、田植えは、まったくの初体験。 それ以上に、「通い弟子」にとっては、めったにない、師匠と一つ屋根の下で寝るという体験へのドキドキワクワク。(なんか古い表現だな)

広い田たんぼ、「機械をつかって植える組」「ところどころ隙間が空いてるところに植える、穴埋め組」とに別れて作業するのだが、 師匠は、なにをするのにも、 「よし、じゃあ、俺と太福でやるぞ」 と、常に側に呼んでくれる。

3日間雨が多く、田植えできる時間は半分くらいだったか。 唯一あった、丸一日天気がよくて田植えが最高にできる!という日に…私は寝坊した。

午前中の仕事がおわって、昼食はラーメン屋まで車で遠征。一杯飲んで帰って来て、昼寝して、午後から作業。 のはずが、 私は一杯が効いてしまって、昼寝の筈が、2、3時間寝過ごしてしまった。

起きたら、もう何だか、若干日が傾いているような光景に、飛び起きて田んぼに走ったが、 そんな私にも、師匠は何一つ小言をくれなかった。

それどころか、 「いいから寝かせておけ」 と言ってくれたぐらいだそうだ。

そうそう。 その前日が、忘れられない思い出の日。

朝から大雨で、「よし、今日は休みだ!」と早々に決まり、ちょうど地元の「酒田まつり」の時期だったようで、 「よし、今日はうちで酒田まつりだ!」と師匠が宣言。 師匠のお姉さん、その旦那さん、近所のおばちゃんたち3人もおかみさんの実家にかけつけ、大宴会が始まった。

これが面白かった。

師匠がかつて、何かのインタビューで話していたが、地元には「おしょこ」(?たぶん)と呼ばれる宴会があって、みんなで円になって、飲み、歌う。 三味線はめったになく、半分破れたような太鼓(破れてるとは限らないです。なんとなくイメージで)と、あとは手拍子。民謡やら演歌やらを、誰からともなく歌いだし、聴く者もいれば、一緒に歌う者もいる。

そんな風習の中で、うちの師匠は育ち、やはり昔っからののど自慢だったそうだ。

師匠、おかみさん、師匠の姉さん、旦那さん、おばちゃん3人、ぶん福姉、旦那、私。10名で輪になって座り、飲んで、食って、歌う。 伴奏はおかみさんの三味線と、あとは手拍子。

おばちゃんの中で一人、とても歌の好きな方がいて、次から次へと歌いだす。みんなで話していたかと思うと、なんのイントロもなく、歌いだす。 師匠は、「お姉さんは間がいい!」と褒めている。

そこで、師匠の「最上川舟歌」を聴いた。

「ヨーイサノマカショ エンヤーコラマカーセ エーエンヤーエー ヤーエー エーエンヤーエード ヨーイサノマカショ エンヤーコラマカーセ

酒田行ぐさげ 達者(マメ)でろちゃ ヨイトコラーサノーセー はやり風邪など ひがね様に・・・・・・」

割烹着のおかみさんが三味線を弾き、泥で汚れたような作業着姿の師匠が歌う。 山形弁の歌詞、師匠が育った「おしょこ」その独特の雰囲気、タイムスリップしたような空間の中で、その歌を聴いた。 私は何も言葉が出ず、となりの、ぶん福姉を見ると、姉さんも同じく度肝を抜かれたような様子で、 「すごい…」 と聞こえるか聞こえないかくらいの小声で、つぶやいた。

すごかった。本当に。

生き様といっては、失礼なのかもしれないが、師匠の一本気の性格、人柄そのものが歌になったような、すごい瞬間だった。 頭の芯が痺れるような、身震いし、ただ唸ってしまうような体験。

一度きりになってしまったが、師匠の「最上川舟歌」が聴けたことは、私にとって宝だ。

その当時はまだ慣れない、宴会の席での下働きであったが、出来ないなりに一生懸命やっているようにみえたようで、 「お前がよく働いたおかげで、みんな喜んで帰ってくれた」 と師匠が言ってくれた。 それもあっての、寝坊許可だった。

浪曲の稽古もしてもらい、「大学じゃ教えないだろう」と薪での風呂の炊き方を教わり、「泥棒か」と私のコソコソした挨拶を注意され、田植えはほんのちょっとで、ほぼ飲み会…夢のような3日間が終わった。

「お前、胴長おいていけ」

と、私はちゃっかり5千円もらって、胴長を師匠に差し上げた。

ぶん福姉夫妻は、新潟経由で東京に戻ることにしてくれて、私はついでに実家に帰れることになった。

5月22日、帰る日になって天気が良い。

我々を見送りながら、庭で吼えている犬を本気で怒っている師匠の姿が、忘れられない。

夢のような3日間が終わった。

通い弟子にとっては、旅の仕事でもなければ、師匠と一つ屋根の下で寝るなんてことはない。 普段稽古に行っても、その後、一杯のお供をさせていただいて、3,4時間。仕事のカバン持ちでも、長くて半日くらいが、せいぜい一緒にいられる時間だ。

24時間一緒!

24時間一緒×3日間!!!

しかも、仕事を離れた師匠と。(つまり、怒られる可能性が、通常よりかなり低い状態)

一緒に近場の滝を見に行き、毎晩大宴会、そこで師匠に怒鳴られる姉弟子(ぶん福姉)…、泣く姉弟子(ぶん福姉)…、すぐに和解し、抱き合う師弟…を見たり、 姉弟子の旦那に「師匠、「いい加減」というの「良(よ)い加減」ってことですよ。だから、そう言われたって気にする事ないですよ」と言われ、「そうか!!」と心から納得している師匠を見たり、 庭にテン(イタチ)が現れたり、お客さん(近所のおばちゃんたち)を前にして始めて一席稽古したり…。

新潟の実家に戻ってからも、その余韻にひたったまま。 翌日も、地元の友人と遊びに出かけたりもせず、久々の自分の部屋で、昼寝していた。

電話がなった。

奈々福姉からだった。

「師匠が、田植えの最中に怪我をされたらしい。詳しいことがわかったらまた連絡する」

「…はい」

寝起きで頭が回らない。

「嘘だろう」と思いつつ、「どうか、軽い怪我であってほしい」と願いつつも、 根がマイナス思考な私は、 「もしかしたら、骨折とか、いや、腕とか足とか、切断とか…」 最悪なことを考えてゾッとする。

再び電話がなるまで、何をしていたか、記憶がない。

「根がマイナス思考でありながら、結局のところ楽天家」 といういい加減な私ゆえ、ただただ祈るというよりも、「たぶん何でもないだろう」ぐらいの気持ちで、 まだゴロゴロしていたかもしれない。

2時間後、3時間後…もっとだったか、わからない。 再び、奈々福姉からの電話。

「落ち着いてきいて」

「はい」

「…師匠、あと数時間だって」

「…はい」

この後、どんなふうに会話したか。 全然覚えていない。

「私はこれから飛行機で山形にむかうから、太福も行けるなら行きなさい」 と奈々福姉に言われ、 「はい、すぐに向かいます」 と、 特に取り乱したりもせず、すぐに両親に話し、山形行きの特急を調べ、新潟駅に向かった。

夢のような3日間が終わって、また夢のような世界が目の前に現れた。

そんな感覚だろうか。

泣いたりわめいたりできるというのは、 その事態を理解し、受け入れられた時だけだ。

理解できないし、受け入れられない。

ただ頭から血の気が引き、全身から力が抜ける気がした。

山形へ向かう特急電車の中、何を考えていたか。全く思い出せない。

海辺に近い、その病院の中は、すでに真っ暗で、 師匠がいるその病室まで、誰かに案内されたのか、 一人で歩いて行ったのか、何も思い出せない。

病室に入った。

師匠が寝ているベッド、そのカーテンの前に立った。

すごく静かだった。

 

(第4話へ)


公開日:
最終更新日:2018/06/10

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