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第4話「最後に」

師匠のベッドのすぐ側、そのカーテンのところに立った。

すごく静かだった。

中に入ると、 師匠を囲んで、おかみさんや師匠のお姉さん、お義兄さん…もっといたと思うが、思い出せない。 静かに、師匠を見守っている。

師匠は、眠っている。 昨日、私、姉弟子一行を笑顔で見送ってくれた師匠が、いまは言葉も発せず、目を閉じたまま横になっている。

鼻や、耳の穴のあたりに泥がついていた。

師匠はその日、最後の田植えを終えて、田植え機を倉庫に片付けに行く途中、あやまって田んぼの中へ落下、機械の下敷きになってしまった。 近くにいたお兄さんがすぐに駆けつけたが、一人で機械を起こすことは出来ず、救出されるまでかなり時間がかかってしまったらしい。

誰から説明を受けたか覚えていないが、こういうことだった。

心電図は動いている。

師匠は生きている。

それでも、もう助からない。

あまりにも唐突すぎて、事態を受け入れられない。あまりにも。

私だけではない。

おかさみんは「その場にいなかった」と自分を責め、お姉さんは「こないだの酒田まつりが、あんまり楽しすぎたから…」と、何の理由にもならないのだが、それでも自分たちを責めようとする。なんとか事態を受け入れようとする。

みな、静かに座って、あとは、なにもできない。

少しして、東京から飛行機でむかっていた、師匠の息子さん、兄弟、一門の弟子、浪曲協会の師匠方数人が、駆けつけてきた。

一番上のお兄さんが、師匠に駆け寄り、声をかける。

「忠士、ほら、ひとっ節唸れ!!」

姉弟子が、師匠の手を握り、言葉をかけている。

「お前も、手を握れ」 と言われ、師匠の手を握った。

涙も出なければ、言葉も出なかった。

みんなが駆けつけるのを待っていたかのように、 22時過ぎだったろうか、師匠は息を引き取った。

その瞬間のことは覚えていない。

真っ暗な病院の廊下で、一人突っ立っていたことは覚えている。

弟子入りして、まだ3ヶ月足らず、 当時はまだ毎日、木馬亭の楽屋に通っていたわけではないし、芸名もつくかつかないかの頃。 先輩方にも、可愛がられたり、親しくさせてもらったりしていたわけではない。

まだ私は、部外者のような気がしていた。

ご家族、兄弟、一門の弟子、長年付き合いのあった師匠方、みなさんが悲しむことを、邪魔してはいけない。 そんな気がして、私は自分が悲しむというよりも、邪魔しないように邪魔しないように、 葬儀場に移動しても、みなさんが集まっている控え室から少し離れて、ロビーのあたりに座っていた。

今でもはっきり覚えていることがある。

みね子師匠が側にきて、

「お三味線、私でいいんですか」

と私に言った。

師匠が亡くなって、まだ数時間だったと思う。

その時はまだ、自分がこれからどうなるか、どうするかなんて、全く考えていないし、考えられなかった。

でもこの瞬間、

「浪曲を続ける。玉川福太郎の弟子として」

それが、自分の中で決まったような気がする。

この日は5月23日、私が弟子入りしたのが3月5日であったから、 わずか2ヶ月と18日で師匠が亡くなった。

翌日の葬儀には、東京からもたくさんの方々が駆けつけて下さった。

東家三楽先生、澤孝子師匠、東家浦太郎師匠、勝太郎先生のおかみさん、お嬢さん、その他多くの人たちが、 目を真っ赤にして集まって下さった。 大阪からも来て下さった方々もいらした。

お通夜の席だったか、 師匠の一番上のお兄さんが、棺に向かって、

「バカヤロー!!!」

と叫んだ。

朝方まで、師匠の棺を間にして、みんなでひたすら飲んだ。

お兄さんが、最上川舟歌を歌ったんだが、 一番高音のところが出なくって、「あれ??」 って、固まっていた。

民謡の師匠でもある、こう福姉が、お兄さんの代わりに歌う。

私も酔っぱらって、姉弟子(ぶん福姉)に生意気なことを言い、 「なんで、お前にまでそんなこといわれるんだ~!!」 と、小言をもらった気がする。

喪服を持参していなかったので、私は葬儀が終わるまで、ずっと黒のロンT姿だった。

告別式になって、ようやく涙が出たと思う。

火葬場へバスで移動。 そこでも、ご親戚の若い人と一緒になって、 夢中で下働きをしていた。

師匠のお骨は、その声節、ごつい顔に似合いすぎる、めちゃくちゃ立派な骨だった。 のど仏はもちろんだが、アゴのあたりの骨も、きれいに残っていた。

みんなで、お骨あげの最中、 その空間に、師匠の魂が漂っている気がして、

「俺の中に入って下さい!!」

と、思いっきり息を吸い込んだ。

なんか、本当に入った気がした。

(錯覚に違いないが、いや、入って下さっていたとしても、その後の私の不甲斐なさに、出て行かれたかもしれないが。トホホ…)

新緑のころ。 山の中の、たくさんの緑に囲まれた火葬場だった。

 

>>>>>>>> 最後に >>>>>>>>>>

そんなつもりはなかったのだが、 「浪曲」の「ろ」の字も知らなかった27歳の男が、出会って半年足らずで弟子入りにいたった、 その経緯と、浪曲の魅力を知ってもらおうと思って書き始めた、このブログ。

しかし、私にとって「浪曲」の魅力とは、すなわち、「玉川福太郎」の魅力であり、 書いていくうちに、亡き師匠を偲ぶような、思い出を懐かしむようなブログになっていた。

(「ブログ」っぽくない、とほうぼうから言われました。新聞の連載か、とツッコまれました)

しかし、 改めて弟子入り直後のことを思い出すと、初心に戻るような気持ちにもなり、 何より嬉しかったのは、私の師匠を聴いたことのない方が、

「師匠の浪曲を聴きたくなる」

と感じて下さったこと。 本当に嬉しかった。

今月の23日で、師匠が亡くなって丸6年だが、やっぱり私の願いはただ一つで、 もう一度、師匠の浪曲が聴きたい。 生の口演が聴きたい。

もちろん、弟子として指導してもらいたかったという気持ちもあるが(当たり前だ。。)、 玉川福太郎が生きていたら、今どんな浪曲をされているか。 一ファンとして、諦めきれない。いつまでもいつまでも、悔しい。

私は、師匠福太郎にはなれない。

そんなことはわかっているし、何よりうちの師匠は「師匠の真似」をしない人だったから、 弟子として引き継ぐことは、物真似ではなく、その「精神」。

私は、師匠とは違う浪曲師を目指す。

でも、「師匠と似てる」と言われると…嬉しい。 このあたりは、師弟の複雑な心境で、説明できない。物真似はしたくない。でも「似てる」と言われると嬉しい。

私が弟子入りしてから、うちの師匠の他に、何人も何人も、魅力あふれる師匠方が亡くなった。

どんどん浪曲のスケールが小さくなっていく。 どうしても、今いる浪曲師の幅が、そのまま現在の浪曲のスケールになってしまう。

もっと色々あったし、もっともっと色々あるべきなのが浪曲だと思う。

この頃とくに、「大きな声だしすぎだ」「がなりすぎだ」と注意される。 師匠は地声が大きかった人。 私は、日常会話でも「え?」と聞き返されることの多い人。

じゃあ、小さい声でやればいいのだろうか。小さい声でやれば、もう少し上手く聴こえるようにはやれるかもしれない。

でも大きい声にこだわりたい。

浪曲の「迫力」というスケール。(なんか意味不明な言葉遣い…?) うちの師匠には遠く及ばないとしても、 「大音」福太郎の最後の弟子として、ただなめらかな節じゃない、びっくりするような、笑っちゃうような大音。 そう、私が浅草公会堂の3階席から身を乗り出したときのような、そんな声を出す浪曲師でありたい。

 

(以上)

 


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